サンパウロ 2年間

 サンパウロ「Sao Paulo」の生活(2016年4月~2018年3月)を綴ります。

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2017年11月17日(金)
「勝ち組・負け組(ブラジルの日系人)」

○ 「勝ち組」

 ブラジルに移住した日本人は,太平洋戦争のため,1941年(昭和16)6月に日本語新聞がなくなった後は,人づてに聞く日本からの短波放送の情報のみが信用できる情報となっていった。
 1945年(昭和20)8月14日,敗戦の知らせを聞いた日本人たちは呆然とするばかりだった。しかし,少し時間がたつと,敗戦という受け入れ難い事実を受け入れる代わりに,敗戦はデマであり,実は日本が勝ったのだと言い出す者が出てきた。その言説は,すぐに日本人の間に伝わり,敗戦を受け入れたくない多くの人たちに信じられることになった。これらの人たちは,「勝ち組」と呼ばれた。
 日系社会の中で指導者層には敗戦を受け入れる人が多かったが,一般の人の多数,特に奥地ではその大多数が日本の勝利を信じた。

○ 「負け組」(認識運動)

 一方,このように多くの日本人が敗戦の事実を認めずに軽はずみな行動をとることで,日本人全体がブラジル社会から排斥されることを恐れた日系社会の指導者層の人たちが中心となり,敗戦の事実と日本の置かれている現状を「勝ち組」の人たちに納得させ,ブラジルの社会のなかでとるべき生活態度を皆で考えいくための「時局認識運動」を起こした。この運動に従事する人は,「負け組」と呼ばれた。
 1945年(昭和20)10月3日,「負け組」の宮腰千葉太に終戦詔書(しようしよ)と東郷外相の海外同胞に対するメッセージが届けられると,
宮腰は在留邦人の有力者を集め,その場でこの文書を在留邦人の間に伝達することを決議した。だが,この行動は「勝ち組」の人たちをかえって憤激させた。それで直接話をしてまわる代わりに,詔書と外務大臣メッセージの印刷物を地方に配布することにした。

○ 「勝ち組」の過激分子によるテロ

 しかし,情勢はさらに悪化し,1946年(昭和21)年3月以降,「勝ち組」の過激分子による日系社会の指導層や「負け組」の人たちを狙ったテロが頻発した。殺された「負け組」は23人,「勝ち組」やブラジル人にも死亡者が出た。
 7月30日から8月2日にかけては,日本人とブラジル市民との間で大乱闘・殺傷事件が発生した。ブラジル政府は,テロ行為の実行犯のみならず,事件に関与していない人たちも「勝ち組」の組織の会員ということだけで検挙し,そのうちの一部の人たちをサンパウロ州北東海岸沖のアンシエッタ島の監獄へ送った。

○ 日本移民禁止条項

 テロ事件はブラジルで大きく取り上げられ,ブラジル国民の対日本人感情は著しく悪化した。ちょうど新憲法の起草に当っていた連邦憲法制定会議では,8月27日,「日本移民を禁止する条項」を憲法に挿入する提案が審議された。採決の結果は,99対99の可否同数で議長の反対票によりかろうじて否決された。

○ 「負け組」の情報

 1946年新憲法の下で邦字紙の発行が自由にできるようになり,
「負け組」の立場に立つ『パウリスタ新聞』が創刊されることになった。その後多くの方面の努力により,日系社会の混乱は,1947年(昭和22)1月10日の暗殺事件を最後に沈静化に向った。
 しかし,日系社会の負った傷は深く,対立は1950年代半ばまで解消しなかった。それは,敗戦から11年後だった。今もその傷は残っていて,その事についてあまり多くを語らない日系人が多い。

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